2014年10月4日土曜日

なぜ吃音者は当事者同士で対立するのか?協力できないのか?

なぜ吃音者は当事者同士で対立するのか?シリーズ 第2回です。

前回こちらの記事を書いた。
なぜ吃音者は当事者同士で対立するのか?障害者はかわいそうな存在なのか?
http://stutteringperson.blogspot.jp/2014/08/blog-post_11.html


今回はこの続きである。


なぜ吃音者は当事者同士で協力できないのか?なぜだろう?
私なりに考えた結果は「吃音者は考えた方、主義思想が違うとすぐに分裂すること」である。
本来ならば、政治の政党内派閥や企業内の派閥のように「親中派」「親米派」「親露派」「右派」「左派」といった具合に、主義思想は違えども同じグループに属して、「今はA案でプロジェクト進行だけど、今後はB案やC案も裏で動かしておいたほうがいいな」くらいがよかったのだ。

それが残念なことに吃音者は主義思想が異なるとすぐに分裂して新しいグループを作ってしまう。
一度分裂してしまえばその主義思想は「教典」となりそれを目指し、それを守るためのグループになってしまう。いざ大きな決断を迫られても吃音者同士お互いに協力することはできないのだ。

この吃音者たち先輩の行ってきたことの弊害が2014年現在に大きく影響していると思う。
吃音者の当事者団体は、一枚岩ではない。背後から鉄砲が飛んでくる。カオスである。
タイムマシンがあれば是非ともこれを防ぎたいものである。
今後は吃音者が考え方の違いで分裂することが起こらないことを祈る。
どうしても分裂しそうになったら外部の吃音者も呼んで話し合いをすべきである。


私は他の障害者団体や社会的障壁がある人のグループはどうなっているのか全く知らない。というのかそれを質問していいのかどうか?という心配もある。


吃音者といえば毎度おなじみのWikipediaの吃音の項目に書かれているように
「吃音者間の治療観の相違」がある。
↓これだ。

吃音者内で吃音に対する考え方の違いから対立が起こることがある。 吃音者には些細なことを容認できない人もあり、相手の考えや症状を尊重しないで、一方的に自己の主張を押し付けることによって生じることが多い。 現時点では、吃音に正解はない、ということを吃音者自身が自覚することが大切であろう。

大きく分けて、「吃音を治したい」とする考えと、「吃音は治さないで受け入れるべきだ」という考えがあり、両者に相違がある。
「吃音を恥ずかしいと思う吃音者」と、「吃音を比較的恥ずかしいと思わない吃音者」がいる。後者は吃音自助グループなどに参加したりする。前者の「もの言わぬ吃音者」は鬱(うつ)や神経症の傾向が強く、積極的になれない傾向があり、自助グループなどには参加しない、できない傾向がある。「もの言わぬ吃音者」は人前でスピーチしたりするのを酷なことと感じる。

「吃音は努力すれば良くなる」とする主張と、「努力では良くならない」とする主張がある。前者の中には吃音を克服するために、あえて言葉を話す職業に就く人もいる。後者の中には、なるべく話さない職業に就く人がいる。これは努力をするかしないかではなく、その人の性格や考え方の違いである。しかし、時として前者には努力万能主義を信じて他人に努力を強要する根性論が見受けられる場合がある。因みに、喋る仕事に就いている小倉智昭や西部邁[25]らは、まだ、吃音は治っていないとカミングアウトしている。ただ、「努力では良くならない」と言う主張では、治った人がいることを説明できない。なぜ治ったかを研究することは大切である。

吃音が治った人がいても、それはその人が治っただけで万人に有効な手段とはいえない。成功者は自分が成功したからと、他人に自分の考えを押し付けて説教をする傾向が見受けられる。また、吃音矯正所を開設してしまったり、カウンセリングの知識がないのにカウンセリングをしてしまう者もいる。

「症状が軽い者」と、「症状が重い者」の間で対立が起こることがある。症状が軽い者の中には、大して気にしていない者もいる。症状が重い方は重大に感じる。これは症状が軽度の者が、重度の者の症状が分からず、自分の症状だけで吃音について判断してしまうことなどに起因する対立である。

プラス思考者とマイナス思考者間での対立がある。プラス思考者は吃音でも気にしないでやっていこうと考える。マイナス思考者は吃音があるから出来ないと考える。ここでもプラス思考者がマイナス思考者に考えを押し付ける(説教する)傾向があるが、マイナス思考に陥ったのはそれなりの理由がある。その理由を分ろうとはせず、考えを一方的に押し付けることで対立が生じる。
吃音者によって、吃音の症状の軽重・これまでの経験・本人の性格・周囲の理解度・住んでいる地域・就いている職業や取り巻く状況が、人それぞれなので悩みの深刻さも様々である。

ここまで引用



現在、筆者の考えるところの吃音者の派閥はこの3つだろうと思う。
1.「できることなら吃音を治したい」
2.「吃音のままで堂々と吃りまくり生活をしろ」
3.「吃音も公的な社会福祉があってもいいのではないか?」

1と2については、一応生活ができている人が多いだろう。
1なら吃音を自分なりに編み出した手法でなんとか隠しながら生活してるかもしれない。
2なら堂々と吃りまくって、私は吃音者です。と生活しているだろう。

3は吃音の社会的障壁に何度も何度も直面し、吃音以外に二次障害も発症して、育ってきた環境やいじめを受けることにより学校で勉強する機会を奪われ、勉強も満足にできないまま大人になりニートやひきこもりになっているかもしれない。



さて、1と2に共通することがある。なんだと思うか?
それは「吃音者は病気や障害じゃない、そんな風に扱われるのは心外だ」という思想である。
なぜかというと病気や障害であると啓発啓蒙されて世間に「君って吃音なんでしょ?病院行きなよ。障害者手帳取れるんじゃない?」なんて言われることは絶対に避けたいのである。

しかし、3は公的な社会福祉を受けるためには吃音とは病気や障害であると認めなければならない。そして、このような「合理的配慮」があれば社会に参加できます。助けてくださいと願うわけだ。

2011年ころからこの3番の吃音者にも公的な社会福祉を求める動きがやっとでてきた。
私はこの3番をなんとか実現したい。無論これを推進すれば、不都合もでてくるであろう。俗にいう発達障害者が直面することが吃音者も直面する。もしも、一般枠で企業に採用されて働いていたのに「ねぇ。あんたさぁ。その喋り方って吃音って言うんだろ。マスコミが報道してたぜ。病院行けよ」と企業の人事部から言われたらどうなるだろうか?

これは現在一部の発達障害者でも実際に発生している問題である。「就業規則に会社が指示する場合は病院にいかなければならない」そして病院で発達障害が判明すればどうなるか?出世コースから外れるかもしれない、定期昇給がなくなるかもしれない、賞与が減額されるかもしれない。無理やり障害者雇用にされてしまうかもしれない。いや、配置転換の繰り返しで、合法解雇と言われる普通解雇「職務を遂行するにあたって著しく能力不足」という伝家の宝刀が使われるかもしれない。とりあえず不穏な空気を感じたらICレコーダーを日々忘れずに持ち歩くことである。



このようなデメリットは発生することはわかっていても。私は3番をまず実現して、なんとか最低限のスタートライン、機会を使えるようにしたいのである。吃音を苦にして自殺することがないように。人生を悲観することのないようにである。もちろんそのためには1と2の考えをもった吃音者にも何とかして協力してほしい。今後発生する問題については吃音以外の社会的障壁がある人たちと協力して世の中を変化させていくしかない。

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