2016年3月20日日曜日

発達障害者支援法改正で「治療」という視点がなくなる? 吃音も治療訓練しなくてよいことになるか?

2016年現在、発達障害者支援法が改正されるのではないかと観測が出ている。
このニュースは2015年から出ているが、昨年は情報収集や実態調査などがあり、内容をどうするかを考えていたようだ。今年の通常国会に発達障害者支援法改正案が提出されるのではないか?

発達障害者支援法改正へ 超党派の議連が提出めざす
http://www.huffingtonpost.jp/fukushi-shimbun/act-on-support-for-persons-with-development-disabilities_b_9241006.html


発達障害者法 切れ目ない支援めざし改正急げ
https://www.komei.or.jp/news/detail/20160307_19366




今回、発達障害者支援法では「治療」、「発達障害は治さないといけないもの」という視点から離れるのではないか?との観測が出ている。

●障害者だから、その障害を克服しなければいけない。
●障害者だから、できる限り訓練治療して、普通と言われる健常者に近づけないといけない。
●障害者だから、普通と言われる健常者が構築したこの世界に適応するように努力しなければいけない。

こんなことが無くなるのだろうか?



◆吃音者は、吃音を治さなくてよいのか?
吃音者は長い間、派閥抗争があった。
・吃音は障害ではない。治してはいけない。だが、吃音を理由に障害者認定、障害者手帳を取得してはいけない。公的な社会保障や税金の世話になるなんて恥である。吃音者はありのままでそのままで居て良いというところまでは理解できるが、困っていても日本国内で利用できるありとあらゆる社会保障を利用してはいけないと考える人々である。

・吃音があって学校や会社職場困っているが、今まで生きてきて身につけた処世術。言い換えや言い直しや忘れたフリや他人に言わせること、他人と同じものを選択すること、吃らないように様々なシーンを想定して用意周到に吃音状態にならないようにしている吃音者もいる。
吃音を診療する病院で医師や言語聴覚士と、発話の訓練をする者もいる。100%フルに吃るのではなく、なんとかして吃音が発生する可能性を低くする努力をしているのである。

・吃音があって学校や会社職場困っているが、自分自身で吃音をなんとかしようという考えをコペルニクス的転回で、困っていれば周囲に助けを求めたり、社会保障を利用していいのではないか?吃音者が自分がどうしたいかを考えて、そこに日本国内で利用できる社会保障があれば使ってよいのではないか?と考える人々である。



吃音者は、長い間、吃音は悪いもの、吃音は劣ったもの、吃音は治すもの、吃音が出てしまうことは恥ずかしいこと、吃音は恥である。などという認識をもっていた。発達障害者支援法改正により、「発達障害とは治すもの」から、「発達障害がある人でも生きていける社会にすること」に方向性がより明確に変化するならとても嬉しいことである。

ただ、「治さなくてよい」というのも、当事者、ひとりひとり考え方は異なるだろうから、360度全方向への選択肢が見える化されている状態が望ましいだろうと思う。

・文部科学省もこのような見解を出している。
独立行政法人 国立特別支援教育総合研究所もこの言葉を引用することがある。

「障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1325884.htm
 障害者の権利に関する条約第24条によれば、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」(署名時仮訳:教育制度一般)から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供される等が必要とされている。(参考資料2:障害者の権利に関する条約(抄)、参考資料3:general education system(教育制度一般)の解釈について)

障害があっても、学ぶ側にいる間に可能な最大限度までの発達ができて、社会に出ていけるようにということである。子どもの成長とはとても驚くべきことが起こるものである、可能な限り最大限度の発達は重要である。大人になって社会にでた後は、障害による社会的障壁があったとしても、それは周囲や社会が歩み寄ればいいのである。

吃音についても、学ぶ側に吃音者が所属している場合は、吃音があっても色々な生き方が選択できるように、吃音当事者とその家族親類縁者が全ての情報を知ることができて、選ぶことができるようになることが望ましいのではないだろうか?最初から吃音は障害ではない、吃音は治すべきだ、吃音だから諦めるということのないように。ライフステージに合わせて、「何が使えるか?どんな道があるか?自分はどうするか?」と当事者と家族が考えることができる状態になっていればよりよい人生を生きることができるのではないかと。

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